2009-05-12

脱線もまた良し

久し振りにゆったりと話す時間を持てました。 日本ではなかなか持てなかった時間です。 集まってみんなで夕食をつくって、さんざん食べて、それから話したことです。 よくリラックスできました。 そこで自分の思考の偏りを確認できたので、そのメモを。

話した内容は 「話している最中に脱線することは好ましいのか」という内容を話していました。 もちろん内容と状況によりけりですが、その時は「何か決めるために集まったとき」という前提でした。

僕の好みとしては 「何か決めるために集まったのなら、まず結論を出すべき。 脱線はその後で」という考えを持っていました。 ところが別の人は違う考えを持っていたのです。 「脱線はその人を知るチャンス。状況が許す限り脱線に付き合う」というものでした。

正直、一体何を言っているのか理解できませんでした。 何のために、皆が時間を調整して集まっているのか分かっているのだろうか?と。 ところが、話を聞いてみるとそれはそれでもっともな話でした。

脱線する人の中には、「状況を理解して脱線する人」と「状況を理解しないで脱線する人」とがいます。 状況を理解しないで脱線する人は、面倒なのでそれはそれで行くに任せる。 時間が来たら、整理して話を戻す。 状況を理解した上で脱線する人を考えた場合、その人は脱線してまでも何かを伝えようとした、と考えているのだそうです。 つまり脱線する人の中にも、状況を理解している人/していない人という分類をしていたのです。

対して、僕は今まで脱線して話す側として考えたことがありませんでした。 もしくは「状況を理解していない人」しか想定していませんでした。 僕自身も脱線話は良くするのですが。 どちかというと制約のある状況下で話をする場合は、

  • どう主張するか
  • どう時間内に当初設定したレベルの結論までまとめるか

ということに注力していました。 僕にとって、脱線は参加者の時間を浪費する邪魔者でしかありませんでした。

時間を合わせて集まった費用に見合う結果を出すために、フォーカスする領域を意図的に制限しました。 他の参加者にもそれを適用していました。

そんなスタイルだったのですが、

必要以上に整理をする必要があるのか。

という疑問が浮上しました。 確かに「必要以上」は必要ないでしょう。 必要な量以上ですから。 必要な量だけ、整理する必要があるのでしょう。

だから、状況が許す限り脱線を認める、楽しむというスタイルがあっても良い。 そういう環境があっても良い。 という場合もある。 特に他人が何を考えているか、何を求めているのかを知りたいと思うのなら。 感情に再生機能は無いから。 -- という視点が抜けてました。

加えて、その人は言いました。

相手が言ったことに注意を向けなければいけないが、 同時に、相手が言わなかったことにも注意しなければいけない。

相手が限られた時間でそのトピックを選んだ、ということを考えてです。 相手が何を選び、何を捨てたかを考えることで、相手の考え方を知ることができる、と。

僕は いつも

まずは要件を終わらせてから。 雑談はそれが終わってから。

という様に考えていました。

案件を片付けるまでは、できるだけその案件を片付けることに集中すべきだと考えていました。相手の気持ちを考えない。過激に言うと、相手をモノ扱いしていたわけです。 しかし、案件に対する相手の反応が、相手を知るための役に立つ情報ということを考えていませんでした。「相手が相手自身の中で何を気にしているか」に注意を払っていませんでした。 これは教訓になり得ます。

もっとも、案件ごとに脱線していたらとてもまわせませんが。 相手が脱線したときに、状況が許すなら、相手に興味を持つ一つの考え方として使えそうです。 目まで笑って傾聴できるまでには当分時間がかかりそうですが。

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