もう一度目的を確認するために、書きましょう。
ということです。
自身でのブログ更新では、
一定のペースで書き連ねる、
エントリーを重ねることを、
できていません。
仕方ありません。未熟ですから。
未熟ですから、あれこれ小手先でなんとか乗り切ろうとします。
現在自分の手帳には、デイリー項目に
-
したいこと5つ
-
止めたいこと5つ
-
始める事1つ
-
止めること1つ
-
長期的にみてやっておきたいタスク三つ
-
その他、今日のタスクたち
を記します。
今日更新しようとするのは、
上記手帳デイリー項目の
の1つにこれを更新する、というものが書いてあったからです。
書いてあったモノをみて、それを原動力にして、もう一回書き出しました。
時間の無駄なのかも知れませんが、自分で決めたことを、とりあえず埋められたという充実感はあります。
これは、書いた側=書き手から見た充実感で、読み手から見た場合の充実感を保証していません。
それで良いのだと思います。
どうせ、狙って読み手の満足しそうな話を作れるだけの文才もないので、
書きたいモノ、もしくは、書かなければ行けない状況になってなんとか拈り出したもの、を評価の対象にして良いのだと思います。
仮に他人がそれに価値を見出さなかったとしても、書いた本人は「その当時自分が書いた事柄」として扱うと思います。
他人が興味を持てば、その人が切り口を再設定して質問してくれるでしょう。
他人が興味を持たなくても、本人が興味をもてば、以前とはまた違った切り口を探すでしょうか。
一般に、成長を感じるとき、それは2パターンあると考えられます。
1つめは、同じ切り口で、考察が以前より深くなされたとき。
2つめは、別の切り口を見つけるとき(別の切り口を見つけられるだけの視野が成長した)。
このような視点で、以前書いたブログ記事を対象として、昔の自分と対話することができます。
仮に他の人が誰一人として興味を持たなかったとしても。自分一人だけでも。
だから僕は、他人=読み手の充実度を勘案しないでブログにはき出して良い、と考えています。
自分にとって、自分のエントリーは他の誰のエントリーよりも裏を読めます。当時をよく知る人間ですから。